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松山 三四六:インタビュー「柔道を通じて伝えたい、日本人が歩むべき道」

世界柔道でのインタビューが話題になっている松山三四六さん(49歳)。現在、柔道家・タレント・ラジオパーソナリティ・歌手・長野大学福祉学部客員教授と、様々な分野で大活躍中。今年の7月に、三四六さんが「1人でも多くの日本人に、柔道の素晴らしさを伝えたい」という想いから誕生した、書籍『世界の中で、いちばん柔道を知らない日本人へ(ベースボールマガジン社)』。今回、三四六さんに柔道人生と出版に至った経緯などについて話していただきました。

1970年7月9日生まれ。東京都出身。小学1年生で柔道を始め、小学5年生から全国少年柔道大会で2連覇を達成。明大中野中学在学中に全国中学校柔道大会も制し、オリンピック代表候補として将来を有望視されていた。しかし、度重なるケガにより、20歳で競技者としての道を断念。1992年、テレビ番組出演をきっかけに吉本興業に入社し、1994年同社を退社。現在、タレント、ラジオパーソナリティ、歌手、作家など幅広く活動。主な作品に「クマンバチと手の中のキャンディ」(文屋)、「ワインガールズ」(ポプラ社)などがある。一方で、長野大学で社会福祉学部客員教授として教壇に立ち、小中高生や企業を対象とした講演会なども現在500本を超える。もちろん、柔道への情熱は引退後も変わらず、コーチとして畳に立ち、世界柔道選手権大会ではレポーターとしてマイクを握り、選手たちの声をお茶の間に届けている。

柔道無敵の小中時代から壮絶な高校時代へ

――まず、三四六さんの柔道との出会いから教えていただけますか?

小学校1年生の時ですね。僕は力が強くガキ大将だったので、「この子に柔道をやらせた方が良い」と言われて始めました。町の大会では勝ち続け、5年生と6年生の時には全国大会で優勝し、中学では明治大学の付属に入り、3年生の時に全国大会で優勝しました。

高校1年生のときに国体予選の準決勝まで勝ち進むと、対戦相手の吉田秀彦に惜しくも負けてしまいました。その頃から身体がおかしくなり、小指の痺れ、腰痛、関節ねずみ、骨の破損と、柔道ではよくある症状が多く出てきたんです。医者の先生に「若いので筋肉でカバーしていくしかないだろう」と言われたんですが、別の先生には「骨を取った方が良い」と勧められたので骨を取る手術を受けましたが試合で勝てなくなりました。2年生になっても回復しなかったので、ほとんど試合に出れなかったですね。

インターハイ前に1ヶ月で7キロ減量して、練習中に肋骨を折ったこともありました。病院でコルセットをはめられたので「3日後に試合なんです」と伝えると、先生に「それは無理だよ」と言われたので、「テメェーに何がわかるんだ」と先生の胸ぐらを掴んだこともありましたね。あの時は、本当に悔しかったですよ。高校3年生のインターハイ予選の決勝では、肘が「バキーッ」と折れてしまったので、「終わった。もう柔道は辞めよう」と思い、柔道から離れるようになりましたね。

監督の言葉に心打たれ、再び日本一に

――壮絶な高校時代だったのですね。それで柔道を完全に辞めてしまったのですか?

辞めたかったのですが、当時の監督に「国体予選に出なさい」と言われたんです。とてもそのような気持ちになれなかったので、「明治大学に進学したいですし、柔道をやっている場合ではありません」と伝えました。すると、監督が涙を流しながら「辞めちゃダメだ」と説得をしてきたんですよね。僕は監督の言葉に心を打たれたので、大会に出場しました。「練習もしてないし、どうせ1回戦負けだろう」と思っていたのですが、78キロ級で優勝してしまったんですよね。その時に「俺は、やっぱり天才なんだな」と思いましたし、柔道着を着て試合に出続ける限り負ける気がしなかったですからね。

それまでは、ものすごく努力をするんだけど最後に怪我をして結果が伴わなく、プレッシャーに押しつぶされてきました。ですが国体予選では腹をくくり、吹っ切れている状態で試合に出ることができ、「あれ?練習してないけど強いな」と感じる冷静な自分がいましたね。

国体では、投げられて半身の体勢で倒れたので完全に1本負けだと思う試合がありました。ですが、判定が「技あり」だったので試合は続き、それから僕が技ありを2つ決めて逆転勝ちをしました。決勝戦で対戦した相手は、その次の年にインターハイで優勝していました。この試合でも競り合いましたが、負けることはなかったですね。

 

柔道ではない道を模索した大学時代

――小・中・高と日本一に。その後も日本一を目指したのですか?

それから大学に進学するわけですが、僕の場合は柔道枠ではなくて勉強をして一般枠で入ったので、柔道部に入らなくても良かったんです。しかし、周りでは「もちろん入部するだろ」という雰囲気がありました。

僕は宙ぶらりんな感じで、柔道に対する情熱が途切れていっているわけです。しかし柔道から完全には離れずに、体育会のような本格的ではない柔道部みたいな所で続けました。そこでは実力が抜きん出ていたので、学生チャンピオンになると体育会の人たちから「早く上がってこい」と言われましたが、情熱を燃やせるような感じではなかったですからね。20歳の時に2回も膝の手術して世界大会に出れるようなレベルではなかったので、「人生違うことを考えないとまずいな」と思うようになりましたね。

――それで、どのような道に進んだのですか?

3回目の膝の半月板の手術を終えてから20歳以下の全日本選手権に出場すると、3位になりました。でも体はボロボロなので「これ以上は無理だ」と思い、親父からも初めて「お前の柔道は、かわいそうで見ていられない。辞めなさい」と言われたんですよね。僕は悔しくて泣きましたし、「夢って叶わないんだな」と思いました。結局、大学3、4年生の時はやることが何もなくなりましたが、卒業するまでに「人生経験を生かせる職業」は何かと考え、教師が思い浮かんだんですよね。

教師にやり甲斐を感じるも、芸能界へ進出

――なぜ教師が思い浮かんだのですか?

柔道でこれだけの経験を積んでいれば、部活動の先生になった時に「生徒に色んなことを伝えられる」と思ったからなんですよね。社会科教師の免許を取得し、卒業前に教員実習として公立中学校に教えに行きました。

2週間だけでしたが、僕はものすごく人気があり女子中学生からラブレターをもらいましたからね(笑)。校門で僕を待つ女の子がいましたし、最後の授業の日は帰り際に生徒たちに囲まれてしまい大変でした。

それから15年後に、昔の事務所のマネージャーから「その当時の生徒から連絡がきました。同窓会に『三四六さんに来てほしい』と言っています」 と聞いたので驚きましたね。嬉しかったので集まりに行くと、「お前いたよなー」なんて話しましたし、生徒が「俺たちは三四六さんだけを先生と思っていたから」と言ってくれたので本当に嬉しかったですね(笑)。

――それで教師を目指したのですか?

僕は女子の高校で働くことになりました。卒業前に、関西にいる柔道の先輩から電話がきたので「僕は先生になれるかもしれません」と報告をすると、「そんなつまんないことを言うな!芸能人になれ!」と強く言ってきたんですよね。

先輩は、その数ヶ月前に僕が素人モノマネ大会に出て優勝したことを覚えていて、「吉本興業が東京に行くで。東京にでっかい会社作るぞ。」と教えてくれたので、オーディションを受けてみると合格してしまい、吉本に入ることになりました。

書籍「世界の中で、いちばん柔道を知らない日本人へ」に込めた熱い想い

――三四六さん、あまりにも多才過ぎますね。現在はコネクト株式会社に所属をし、様々な活動をされています。「世界の中で、いちばん柔道を知らない日本人へ(ベースボールマガジン社)」を出版された経緯を教えていただけますか?

僕はしばらく柔道から遠ざかっていましたが、2003年に世界柔道選手権が大阪で開催され、初めてテレビで中継されることになったんですよね。それで当時の事務所の人と僕を可愛がってくれていた斉藤仁さんが売り込んでくれたので、インタビュアーをやることが決まりました。

また、自分の子供に柔道をやらせると、柔道の最高峰の戦いと底辺の少年柔道というピラミッドの頂点と底辺が同時に見てきて、多くのアイデアが出てきたんですよね。僕はいつの間にか柔道界とメディアの間にいる存在となっていましたし、IOC現会長の山下泰裕先生と話す機会があり、次のように言いました。

「先生、このままじゃ柔道界はダメになります。テレビ局が柔道というコンテンツに莫大なお金をかけてやってくれているのに、そこにあぐらをかいて選手があくびをしているようじゃダメです。時代は違うんです、先生。このままではテレビ局が離れていきますよ。そうなれば柔道は誰も見ないスポーツとなり、柔道人口が減ってしまいます。他には暴力問題も直さないと。」

柔道を知らない一般の方々が、柔道を見た時に「何、あの世界?気持ち悪い。あんなのこれから絶対に通用しない」と思うわけです。「他からの目、風を入れないといけないんだ」とずっと言い続けてきました。僕と同じことを吉田秀彦も言っています。彼は柔道を辞めた後、総合格闘技の世界に進みました。その時に、スポンサー・芸能界・マネージメント・イベンターなど様々な人と付き合い始めるんですね。そうすると、「柔道は、このままじゃダメだぞと」と思うようになったんですよね。

日本の柔道人口は20万人を切り、減り続けています。ブラジルは80万人、フランスが70万人と日本よりも多いですからね。サッカーの母国はイングランドだけど国技としているのはブラジルみたいな時代が、このままでは柔道にも必ず来てしまうと。僕はそのような危機感を抱いたので、「世界の中で、いちばん柔道を知らない日本人へ」にまとめました。だからこそ、「柔道に興味がない人に読んでほしい」と強く思っています。

松山三四六から読者に伝えたいメッセージ

――三四六さんが読者に伝えたいメッセージはありますか?

沢山ありますが、「生きている限りは命を燃やさなければならない。死んだように生きるのが嫌」ということですね。長いものに巻かれるくらいなら「死んだほうがまし」と思っています。「自分がそう思うのなら、それを貫け」と言いたいですね。でも、自分が間違っていたら、しっかりと謝りましょう(笑)。

つまり、このようなことが今の僕の活動の根底にあるんですよね。だからどこへ行っても力を抜きたくないですね。今回のインタビューも100%の力でやってから終えたいです。たとえ仕事によって給料が違ったとしても、同じ力でやるのが僕のポリシーとなります。

――本では「克己心」についても触れていますね。

その通り。克己心が全てですよ。外人は、試合で負けた日本人が「サンキュー」と言うことに疑問を感じています。負ければ悔しいので「ファックユー」だろうと。

これは違いますね。日本人には「自分を超えたい」という克己心があります。それゆえ、日本人は相手とではなく自分と戦い、「敵が自分である」と思います。相手が試合をしてくれたお陰で自分に勝てるかどうかを知ることができたので、負けても「ありがとう」と言うんですよね。

――三四六さんの今後の展望を教えていただけますか?

僕には、何もありません(笑)。これまで、目標としてきたことが殆ど叶っていますからね。自分には夢がありませんから。

夢を持つことは、今の自分を否定して認めていないことになります。「もっと良くなりたい」というのは前向きに見えるけど、「今の自分が嫌だ」ということが裏に隠れているんですよね。それは良くないので、「今の自分は良い。今の自分よ、ありがとう」と思うようになりました。
今回の本には、「お陰様でとても元気です。お陰様で勝つことができました。私たちは何かに認められたり、状況を尋ねられると『どうもお陰様で、元気でしたか?』と言いますよね」と書いています。

でも実際、その人にはお世話にはなっていないですよね。初めて会う人に対しても、「お陰様で」と言うじゃないですか。これは、今の自分があるのは、この世に存在する水・空気・大自然・大地の恵みなど、それらの「お陰である」と思っているからなんですよね。「私の陰、スポットの当たらない、見えないものが自分の力になっている」という考え方なんです。このような素晴らしいことも、柔道を通じて僕は知りました。

――最後に、三四六さんにとって柔道とは何になりますか?

僕みたいな若造が言うのもどうかと思いますがね(笑)。柔道以外にも、空手道、剣道、合気道の全てに「道」が付いていますよね。結局は生きる「道」となります。柔道は生きるための道標、ヒントであると。これが僕の答えとなりますね。

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