-それでは、時計を過去に戻してみましょう。サルトで暮らしていた時代について。あなたの幼少期はどのようなものでしたか?どんな家庭で育ったんですか?恵まれた家庭でしたか?サッカーが好きだったのですか?それとも、そうではなかったのでしょうか?
そうだね。時計の針を止めて過去に戻そう。
その頃の思い出は、僕の人生にとっても家族にとっても、いつだって特別なんだ。
うちは農家だったけど、すごく美しい思い出があるよ。
家計に余裕はなくて、いつも生活はギリギリだったけどね。
父親はいつも言ってたんだ。
僕の国ではこういう言い方をするけど、「身を粉にして働いた」ってね。
僕たちを育てるために最低限のモノや、人生を歩んでいくための価値を身につけさせてくれるためにね。
だからこそ特別な思い出なんだ。
だから、僕がサルトで過ごした少年時代の話をする時は、両親への感謝しかない。あそこには僕の幼少時代のすべてがあった。
-子どもの頃は何をしていましたか?学校に行って家に帰り、友達とサッカーして遊んでいたとか。近所での日常はどうでしたか?
“エディ”という呼び名は、僕がモンテビデオに行った時につけられたんだ。
モンテビデオに行く前まではいつだって“グリンギート”(小さなアメリカ人)と呼ばれてたよ。
なぜかって?僕の父親が“グリンゴ”(アメリカ人)と呼ばれていたからね。
サルトでは“グリンゴ・カバーニ”って名前で知られていた。
僕は兄弟で一番年下だったから、グリンギートって呼ばれていたんだ。
その後、成長して中学校に入ってからはグリンギートじゃなくエディって呼ばれ始めた。
もう父親の“小さい子ども”ではないってことでね。
それからは、エディと呼ばれているよ。
その後ここにやってきてサッカーをするようになってからは、具体的にはナポリ時代に“マタドール”(闘牛士、暗殺者)というニックネームに変わった。
えーと、何を質問されたか忘れちゃったな。
-家族のサポートと言っていましたが、末っ子として、同じくサッカー好きだった兄弟たちとの関係はどうでしたか?
さっきも言ったように、僕のあだ名は父親ゆずりなんだ。ごく普通の一家だったよ。
僕の父親は・・・というより、家族みんながかなりのサッカー好きだった。
父親は生涯サッカーをしていたし、叔父たちもそうだった。兄貴のウォルテルもフェルナンドもサッカー選手の道を道を歩んだ。
当時は、毎日でも空き地に行ってサッカーをしたいっていう思いが強かったね。バッグに紙を詰めてボールを作り、それを蹴り合って試合をしていたよ。とてもいい思い出だ。うちの家族は僕をそんな風に育ててくれたんだ。
プロのサッカー選手にならなきゃいけないとか、将来は有名になって欲しいみたいなプレッシャーをかけることもなくね。
僕自身にテストを受けたいとかサッカーで一流になりたいというような意欲が芽生えるまで、放っておいてくれたんだ。
-友達についてですが、小さい頃から仲が良く、一緒に遊んでいたのは誰ですか?今も付き合いは続いている?
一緒にプレーしていたチームメイトで、今もよく連絡を取り合ったりする友達がいるよ。いつも家に誘いに来てくれて、一緒に連れていってくれてた。練習に行く時は誰かが車を出して連れて行ってくれるんだ。誰かと約束していれば、僕の父親が行けなくても、誰かが連れて行ってくれた。
僕が5歳の時から何年かプレーしたナシオナルは、監督が誘ってくれたんだけど、「あいつは監督が連れて来た子どもだから試合に出れるんだ」って言われるのも怖くなかったよ。まあ、それは冗談として。
そこから家族で話し合った。その結果、父親が仕事から一度家に戻り、僕を練習に連れてってくれるようになった。チームメイトたちとはずっと連絡を取っていたよ。
でも、幼少期のサッカーの思い出で一番よく覚えているのは、ブルーノ。ブルーノ・フォルナロリだ。ペニャロール・デ・サルトで4年間一緒にプレーしたんだ。そこで一緒に素晴らしい経験をした。僕はボランチとして10番を背負っていたね。彼はチームのストライカーだった。そこにはレギザモとかたくさんのチームメイトがいた。モンテビデオにもね。
多くのチームメイトがいたけど、彼とは似てるところがたくさんあったんだ。だから、よく連絡しあってた。
-近所の子どもたちには悪い連中もいい連中もいたと思いますが、彼らの名前を教えて下さいよ。彼らを探しに行きましょう。彼らもきっとあなたの話しをしてますよ。
連中の誰かが「カバーニは俺の生涯の友人だ。子どもの頃からの幼馴染なんだ」と言ってるみたいなことを僕に言わせたいんだと思うけど・・・彼らは普通の家で育って、僕と同じ場所で少年時代を過ごした。
でも、僕が子供の頃は、うちの暮らしは落ち着いてなかったんだ。
僕たちはいつも誰かの家を借りたり、祖母の家で暮らしたりをしてたからね。だから、いつも引っ越をしていた。だいたい2年ごとにね。自分たちの家が見つかるまではね。たしか僕が14歳か13歳の時に家を手に入れた。
だから、近所の子どもたちやチームメイトの知り合いがたくさんいたことってないんだ。母親はいつも「あんまり、この辺の地区の子どもたちと遊びに行っちゃだめよ」とか「早く家に帰ってきなさい」って言ってたね。
-ルイス(スアレス)も住んでいた地区だったんですよね?
いや、ルイスは6歳で町を出て、モンテビデオに行ったんだ。
-では、彼との思い出はないんですか?
ないね。僕たちが知り合いになったのは、もっと大きくなってからさ。
U20代表の時に知り合った。その時会ったのが初めてで、そこから僕らの関係は始まったんだ。
サッカー選手としても、その他のことに関しても。
-あなたが最初に所属したクラブでは、父親とのエピソードがありますね。試合ではあなたばかり使ったとか?
サッカーを始めた頃、つまりサルトでサッカーをプレーし始めた頃、サルトのAチームの監督は父親だった。
僕が14歳になったばかりの頃、父親は僕に、サルト・ウルグアイに行けと言ったんだよ。僕はその頃、レメロスというサルト・ウルグアイの弟分のチームにいた。クルブ・レメロス・デ・サルトという名前のね。
それはレメロスでの最後の年だった。僕はそのままサルト・ウルグアイのAチームに自動的に昇格したんだ。僕は13歳の時にもうサルトのU15選抜に選ばれていた。父親は僕を早く上のカテゴリーのチームに連れて行きたがっていた。
僕もそれを望んでいたけど、それにはひとつ条件があった。僕を連れて行くのはプレーさせるためじゃなかった。
僕はスタメンでないどころか、試合に出られる選手でもなかった。
それでも彼は僕を連れて行きたがったんだ。僕にロッカールームの雰囲気や、ロッカールームでのしきたりを教えるためにね。子どもだった僕には普通じゃないこととか、想像できないようなことをね。
でも、そこにいて一番上手い選手たちと一緒にプレーできたことはすごく幸せなことだった意欲に溢れていたって言ったらいいのかな。年上の選手たちといつも力試しができるんだ。そこには30歳とか35歳とかの大人の選手もいたからね。
そんな風にスタートしたんだ。でも、1年間はまったく公式戦に出れなかった。
シーズン前にトーナメントがあって、そこで僕は試合を決める活躍をした。エリアの外から切り込んでファーポストにゴールを決めるというすごくいいプレーをね。試合の最後にはファウルを受けPKも獲得した。
だから、僕はこれでプレーできるチャンスをもらえると思っていた。
でも、それはかなわなかったんだ。僕がそのチームにいたのは学ぶためだったからね。
父親はやっと僕をデビューさせてくれたけど、それはたしかシーズン最後の残留をかけた試合だったと思う。チームは残留を争っていたから必死にプレーしていたけど、出来は散々だった。ハーフタイムに父親は僕に言ったんだ。「おまえを入れる」ってね。
僕たちは0-1で負けていたけど、父親は僕をピッチに送りこんだんだ。それがデビュー戦になったよ。
そして僕はプレーし、PKを得るファウルをとった。そこからチームは目をさまし、競争心を取り戻したんだ。
そこからすべてがスムーズに動き始めた。
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To Be Continued…(vol.2の投稿は7/25(日)予定)