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–京谷さんが車いすバスケットボールを始めた1994年から現在まで、競技人口はどのような変遷を辿っているのでしょうか?
僕が始めた頃は、多分、1500〜1600人いたと思います。でも、今は半数位になっているんじゃないでしょうか。
人口の多い我々第2次ベビーブーム世代が歳を取って競技から退くようになったことと、少子高齢化が影響していると思います。チーム数も減っています。
–1994年当時、どういった方が参加されていたのでしょうか。
我々の世代は、変な話、暴走族とか、走り屋が多かったわけですよ。
乗る物がバイクから車いすに変わっても、スピード出したりするのが好きな、やんちゃな気質の人が多かったと思います。根性があって、負けん気が強くて、ボールに触れると「やってやろう!」という感じですね。
今は、道路交通法が厳しくなり、暴走族も減り、車の性能も上がり、事故を起こしても大怪我に至ることが少なくなっているかもしれません。
事故を起こして競技を始める選手よりも、幼少期の病気や先天性の障がいを抱えている選手が多くなってきていると思います。昔の選手の方が、根性はありましたね。まあ、今の選手たちに根性が無いわけではないんですが。
–選手たちの職業に何か特徴的なことはありましたでしょうか?
僕も社会福祉協議会にいたことがあるのですが、安定している所に就職することが多く、公務員が多かったような気がします。
一般企業で、今みたいにバリアフリーやユニバーサルデザインといったものを取り入れている所も少なかったでしょうし、障がい者雇用についても、大半は「罰金を払えばいい」という感じだったと思います。
少しずつ状況が変わり、一般企業に行く選手も増えてきました。
僕も最初は、ある企業の特例子会社で、障がい者雇用という形で入りました。そういった働き口が少しずつ増えてきたのが、当時の状況です。
–プロ選手は、いつ登場したのでしょうか。
プロの定義をサッカーや野球と同じだとするのであれば、今でもゼロだと思います。
日本代表の香西宏昭がドイツでやっていますが、ドイツのリーグはプロリーグではありませんので、「プロ的活動」であって、プロ選手とは言い切れません。
–WOWOWに所属している選手たちのように、サポートを受けている選手がいます。そうした形の選手が出てきたのは、いつ位なのでしょうか?
それは僕が最初かもしれないですね。
パラリンピック北京大会に行く前、社会福祉協議会を辞めた時に、ある企業が支援してくださることになりました。
練習に行く日は早く終業していい、合宿参加の際も「どうぞ行ってください」という形で、講演活動も自由にさせて頂きました。その後、東京2020開催が決まり、アスリート雇用ができて、そこから一気に増えていきました。
競技優先という形態は、2013年位からだったと思います。障がい者雇用率の問題から、企業がいろんな選手を採り始めたという事情もあったと思います。
–代表クラスの選手に関して、約30年間での変化を、どのように感じていらっしゃいますか?
金銭面やトレーニング環境の変化が、凄く大きかったと思います。
僕の現役時代、2010年のアジアパラリンピックで金メダルを取って、数万円だったと思いますが、少し国からの強化費が増え、自己負担が少なくなりました。
それまでは、国際大会は別ですけど、合宿や遠征など、国内での活動にかかる費用が、全て自己負担だったんです。1回の合宿で5万、6万、海外遠征に行くと20万、30万近くかかっていました。
パラリンピックの東京開催が決まり、強化費が増えてからは、金銭的な部分は、ほとんどかからなくなってきました。また、アスリート雇用のおかげで、トレーニングする時間や個人的な時間が増えて、チームの練習にも行けるようになりました。
金銭面と環境面は劇的に変わリ、競技力向上という部分については、非常に良い影響を受けたかなという感じがします。
–施設や練習環境については、いかがでしょう?そもそも、使用許可が下りない施設などもあったかと思います。
僕が所属していた千葉ホークスというチームの場合、「千葉県障害者スポーツ・レクリエーションセンター」という施設が練習拠点でした。障がい者専門の施設がほとんどだったんですね。
他の体育館を借りようにも、床が「傷つく」とか「汚れる」という理由で貸して頂けない所もありました。
使用した次の日に電話がかかってきて「床が汚れているから拭いてくれ」と言われたこともありました。施設については、凄く使い辛さを感じていましたね。
本当に東京2020の影響は大きくて、それまで使わせてくれなかったのに、いきなり強化拠点になった所もあります(苦笑)。
あと、何もよりも大きいのは、障がい者専用の体育館のパラアリーナというのがお台場にできたということと、ナショナルトレーニングセンターの「屋内トレーニングセンター・イースト」という場所を、パラスポーツ中心に使わせて頂けるようになったことです。
代表レベルだけなんですけれども、強化拠点ができたということです。
以前は、代表強化合宿を計画するにも、体育館をどうしようかとかいう問題がありましたが、今はナショナルトレーニングセンターで組むことができます。
代表の強化活動ということで考えると、やはり今までよりも本当にやりやすく、強化しやすくなってきたかなっていう風に思います。
–若い世代の参加率は、どのようなものでしょうか?スポーツがそもそも選択肢にない方もいらっしゃるかと思います。
私はU23のHCも兼任していますが、若い選手、中学生位の選手も推薦で上がってきています。車いすバスケットボールの体験会などに来る子もいます。
僕も、スポーツを通して障がい者の社会参加や自立を促すような、そうしたプロジェクトを立ち上げています。ただ、そこから競技に入っていくという、次のステップが無いような気がするんです。
だから、連盟でも、発掘、育成、強化というしっかりしたパスウェイを作ることの必要性を訴えています。普及ですね。毎年何人かずつ増えていますけれど、極端に増えることは考えにくいかなと思います。
–普及と発掘という部分、例えばサッカーと比べ、どういったことが言えますでしょうか?
発掘していく難しさがありますよね。
サッカーは、小学校の大会もありますし、各クラブチーム、いろんなところでサッカーする場所があリます。そこから良い選手がその町のトレセンに集まり、町、県その次にはナショナルトレセン、そういうちゃんとしたピラミッドになっているわけですよね。
車いすバスケに関して言うと、例えば選手がいたとしても、それを指導する場所がなく、クラブチームとしてやる場所もありません。
かといって、大人と一緒にやるのも難しいですからね。また、練習などしても、発表する場所、見てもらえる場所がないということが、やっぱりありますね。
–参加、体験してみたものの、次の段階の受け皿がないと。
そうなんです、そうなんです。大人と一緒にやるわけにはいかないじゃないですか。
香西宏昭に関しては、小学校6年生か中学校の時には大人のチームに参加していましたが、まあ、プレーは別枠でしたからね。
チームの配慮があれば、なんとか受け入れてくれるんでしょうけど、大人と一緒にやるとなると、やっぱり子どもは恐怖感を感じるでしょうしね。
そういう受け皿となる場を作ってあげるということが、今後必要なのかなと思います。
–環境面で、何か求めるものがあれば教えてください。
僕は正直、そんなにないんですよね。「こうして欲しい」、「ああして欲しい」って言う前に、まず自分達がやれることをやって、それ見てもらって、どう評価してもらうかだという風にずっと昔から思っているからです。
でも、もし1つ言うとすれば、バスケットに関わらず、生でパラスポーツを見てくださいということですね。
それぞれ感じ方が違うと思うんですよ。「面白い」って言う人もいれば、「つまんねーな」って言う人もいると思います。その反応があるだけでいいなと思っています。
つまらなかったらつまらないで、それはちゃんとした評価してくれたんだという風に思いますしね。
とにかく、実際に現場に来て、見て、いろんなことを感じてもらうだけでいいんです。その中から1人でも車いすバスケットが楽しい、応援したいっていう人が増えればいいと思っています。
だから、僕らはただ本当に、今できることをやって表現していくしかないと思っています。
To Be Continued…(vol.2は2022/1/23(日)投稿予定)