こんなはずじゃなかった。たどり着いた先はヨルダンでの美術教員
ーー松永さんはどういう経緯でヨルダンに来られることになったのですか?
私は、いつも色々間違っていたところがあったなと思います。
例えば、小さい頃バレエやっていたんですけど、私自身はフィギュアスケートをやりたかったんです。でも、クルクル回っているのを見た親がバレエと勘違いして、バレエに入れちゃったんです(笑)。
人生においていつもこのような感じで…
海外支援についても、今思うと私が本当に行きたかったのは、イランかクルドだった気がします。なぜかというと、イランは、モスクなどの幾何学模様や装飾品がすごく綺麗ですきでした。また、私がすごく好きな映画監督にバフマン・ゴバディというクルド人の人がいて、その監督の映画がすごく気になっていました。
でも「青年海外協力隊」の中東の枠で応募するときに、イランが候補の国にはありませんでした。それなら有名なダマスカスがいいと思って、シリアでのボランティアを志望しました。けれど、残念ながら私の行った2011年から、内戦始まってしまったので、第二希望のヨルダンに行くことになり、そこでパレスチナ難民キャンプの美術の教員として、2年間仕事をすることになりました。
だから全部ちょっとずれているんです。こんなはずじゃなかったということばかりですね(笑)。
一杯80円のコーヒーが、身を守るための保険
ーーパレスチナ難民キャンプではどのような日々を送っていましたか?
パレスチナキャンプに毎日行って、アラビア語が全然喋れない中で教壇に立っていました。イメージでいうと、本当にすごいヤンキーの女子校みたいな所ですよね。アラブ人の先生が教壇に立てば、きちんと言うことを聞きますが、さっぱり喋れない外国人がきたら、面白くて、調子に乗ってしまう。それに、授業以外でもすごく辛かったです。
ーー具体的なエピソードを教えてください。
通学のときに、石やトマトが飛んでくるんです。さすがに女の子たちは学校の中では投げないですけど、男の子たちには、バスを降りてから学校までの道のりで投げられました。興味があるけど、どうしたらいいか分からないから、挨拶がわりに投げてくるみたいなんです。
ーーそのようなときどのように対応したのでしょうか?
通学中に、携帯電話で話しているふりをしていました。
イスラム語って、言葉の語尾で男の人か女の人どちらと話しているかが分かるんですけれど、電話で偉いおじさんと喋っているふりをしながら歩くと石やトマトを投げなくなるんですよ。
あと、こっちの人たちって、濃い、粉みたいなコーヒー飲むんですけれど、私はそれが好きなんです。なので、バス停から学校までの間にあるコーヒー屋さんで毎日80円のコーヒーを買うようにしました。それで、店のおじさんと仲良くなって顔を覚えてもらって、男の子たちが何かしたときに助けてもらっていました。保険みたいなものですね、毎日80円の。
ーー様々な辛い状況を何故乗り越えられたんですか?
いや、辛いですよ。正直それは辛いに決まっていましたけど、行かなくなったら負けと思っていたんですよね。最初の一年半とか、学校から帰ったらずっと引きこもっていましたもん。でも、短い期間でヨルダンに来て、もっとうまくやっている人たちを見て、自分ももっとやれるんじゃないかって思うようになりました。そういう人たちは、早く現地の人たちと仲良くなったり、イスラム流の交渉が上手だったりするんです。
ーーその“イスラム流の交渉”とはどのようなものなのですか?
今のキャンプでの授業も、ヨルダン政府に「こういうものがやりたいです、これくらいの予算がついていて、こういう目的です」っていうのを申請して、許可をもらわないと、プログラムができないんです。私は、事務的に申請して、なかなか話の通らない政府と喧嘩したこともあるんですけど、イスラム流は、交渉の前にいかに相手のことを尊敬しているかを表してから、物事を頼むんですよね。
辛い環境の中での一番の癒やしは子供達とのふれあい
ーー今まで苦しかったお話を聞いてきましたが、今度は逆に子供達の可愛かったエピソードを教えてください。
この間、授業中に子供たちがコソコソと手にクリームをつけて、お互いに塗りあって笑っていたんですけど、叱りながらも内心では、子供らしいっていいことだとニヤニヤしていました。そういうところを見透かされているのか、私はキャンプの子供達にもナメられて(笑)。よく子供達は私の前で、私の喋り方の真似をしています。
あと、昨日の話なんですけど、私たちの授業の対象じゃない一年生の男の子がいるんです。その子はいつも、うちの教室の先生が好きで、その先生に挨拶をしてから自分の教室に行くんです。
ーー物凄く可愛いですね(笑)。
そう、超かわいいですよ。もう本当に。自分でもただの近所のおばさんみたいだなと思うんですけどね。