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飯沼誠司インタビューvol.1『日本人初のプロライフセーバー誕生秘話』

「日本人の水辺の文化向上を目指し、より安全に海を楽しんでもらいたい」

そう語るのは、日本人ライフセ-バーとして初めてのプロ契約を果たした飯沼誠司氏だ。

全日本選手権アイアンマンレースでは5連覇、海外のレースでも数々の好成績を収めた。

本場のライフセービングを体験してきた先駆者として、次代を担う若手の育成、ライフセーバーの地位向上、海の環境保護、水難事故の防止策チャレンジ精神の大切さを伝える講演活動にも積極的に取り組んでいる。そんな飯沼誠司さんにライフセーバーとしての歩み、新型コロナウイルスの影響で問われる海辺の問題など、多義に渡り語っていただきました。

こちらのインタビューは、全3回にてお届けしたいと思います。

飯沼 誠司(いいぬま せいじ、1974年12月18日 - )は、日本のライフセーバー、俳優、タレント。東京都出身。血液型はA型。身長176cm。体重70kg。特技は英語。東海大学体育学部卒業。

2010年ライフセービング競技世界大会にてSERC競技において銀メダル獲得。 2014年早稲田大学学術院社会人修士修了。ライフセービング競技日本代表監督。

2015年 にアスリートセーブジャパンを設立し代表理事を務めている。


――最初にライフセーバーを目指したきっかけを教えてください。

もともと小さい時は身体が弱かったんです。喘息やアレルギーもありましたし、虚弱体質を変えたいと思って、水泳を始めました。サッカー、陸上にも手を出しながら競泳はずっと続けていました。

順調に泳いでいたのですが、高校生で本格的に伸び悩んでしまうんです。

多い時は、毎日20キロくらい泳いで必死に練習を頑張ったんですが、3年間でタイムが1秒しか伸びなくて。

この時に、競技として水泳をやる限界を感じて、精神的にもきつい日々でした。

身体を強くするために水泳をやってきたのですが、競技的には魅力無くなった部分もあって、「泳ぐことをやめずに、競技はやめる方向」を考えた結果、大学ではトライアスロンを選びました。

でも、トライアスロンはお金がかかる。両親が離婚したばかりの時期でもあったので、大学の学費もアルバイトしながら稼いでいた状態でした。

遠征に行くと毎回10万円、自転車を買うだけで100万もかかるという競技は、生活のスタイルに合わなかったですし、当時の僕には続けることが難しい状況でもありました。

そんな時、大学のライフセービングにも話を聞きに行きました。鍛えられた人たちが波の中をこえてレスキューしたり、レースをしている迫力ある様子を(勧誘時に見せられるビデオ的な)動画で見て、「こんなたくましい人がいるんだ」と思って、身体の弱かった僕が、”もっと強くなるために始めた”というのがきっかけでした。

――ライフセービングで苦労したことはありましたか?

 

トレーニングはとても面白くて、高校で伸び悩んでいたのに半年くらいでタイムは縮まりましたね。

1年目はトレーニングやっていましたが、事故は起きず平和な日が続いたので、モチベーションの維持は難しかったですね。毎日のようにレスキューが起こるものだと思っていたので。

何か起こった時に向けて緊張感は持っていないといけない。でも、平穏な日々が続くので、なかなか、自分の身体に(緊張感が)浸透しなくて。1年目の時は、救護用のベットの下で寝ていたこともありました。

朝に2時間練習した後、日中は朝9時から16時までライフガードをやり、その後は17時から19時まで練習。トレーニングを頑張りすぎると、日中に眠くなってしまうこともありました。

高校時代のあだ名は「もやし」。白くて細くなよなよしていた。

大学に入ってからは、「肉とかタンパク質を摂るように」と先輩から教えてもらいまして、1年で10キロくらい体重も増えて、一気に身体が大きくなりました。高校時代を知る人からは、「高校の時は頑張ってなかったのでは?」と言われたこともありましたね。

「とにかく身体を強くしたい」という憧れがあったので、必死にやりましたよ。もともとは「人を助けたい」という理由でライフセービングを始めたわけではありませんでした。

――「ライフセーバー」として活動したのはいつですか?

 

1年目は、何も事故は起きませんでした。続く2年目は、監視タワーから見ていた時に、中学生くらいの子が溺れているのを見つけました。その近くにいる先輩に「レスキュー!」と言うんですが、波が大きくて、目の前にいるのに助けに行けない状態でした。

先輩が助けに行かないから、「手遅れになるといけない」と思って、僕が救助器材も持たずに助けに行ったんですが、その子に必死にしがみつかれて、溺れそうになってしまいました。

その時は、最終的にボードが得意な先輩が来て、ピックアップしてもらったのですが、これまでにやってきたことと違う本番がありました。(救護に駆けつけた人が)必死になりすぎてどうしていいかわからなかった。このときから、心を入れ替えましたね。

「泳げる」ことが、救助に長けているわけではないことを知ったので、ここから勉強して国内外の事例を見たり、「みんなのモチベーション上げて指導するにはどうすればいいか?」を考えるようになって。ライフガードの地位を底上げできるように、知ってもらえるような目立つ位置に、活動場所を移動、看板も設置させてもらったりしました。

3年目はキャプテンとして、内容やシフト決める一方、日本代表として国際大会にも出ました。

でも、国際大会に出たものの、大きな波のなかでレースをしましたが、完走がやっと。自分の実力の低さや、世界のレベルの高さを感じさせられて、「もっとレベル上げたい」と思うようになりましたね。

To Be Continued…(vol.2は8/22(土)投稿予定)

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