――ラグビーを始めたキッカケは?
ラグビーを始めたのは、高校生の時です。それまでは、野球をやっていました。まあ、下手くそで、カーブが打てなくて、あまり試合には出してもらえませんでした。そんな時、仲の良い親戚が御所工業(現・御所実業高校)にいて、「御所来てラグビーすればいいやん」と言ってくれました。中学校の体育の先生が天理大学の柔道部出身で、恩師となる御所実業の竹田寛行監督と繋がっていたんですよ。ラグビー部と柔道部で仲良かったみたいで。それで、入学した後、正式に「ちょっと紹介してあげるわ」ということになり、中学の友達4人ぐらいと一緒に体育教官室に行き、初めてラグビーに触れました。それが僕のスタートですね。
――当時の身長は?
180cmぐらいでした。中学校2年生ぐらいから急激に伸びました。身長順に並ぶじゃないですか、そうすると、真ん中より前の方だったんですね。ちょっとしたコンプレックスじゃないですけど、身長高い方がいいなって思っていたんですけど、1年半ぐらいで急激に伸びて、成長痛で大分痛みましたね。高校卒業の頃には、もう今と一緒で187cmです。
――野球では活躍できなかったとのことですが、体育の成績や運動神経は?
全然ダメです。僕、丸いボールがダメなんですよ。要はテクニックがない。運動センスはないです。丸いボールを使う競技だと、バスケやサッカーにはドリブルがあるし、バレーはボールを落としちゃダメじゃないですか。サッカーは小学校の時にやってみたのですが、3日で辞めちゃいました。中学の部活は引退が早いので、野球部のOBとか3年生で集まって、夏から市の体育館でバスケをしていました。部活じゃないので楽しかったんですけど、合わない感はありましたね。ラグビーって、ボール持って走るだけだから、センス要らないじゃないですか。僕はボクシングとかキックボクシングの方が向いている気がします。
――当時、将来をどう考えていたのでしょうか?
工業高校に進学するので、そのまま工業関係の作業員になろうと思っていました。工業大学とかに行ったら、ちょっと給料が良くなるのかなとか。スポーツに僕は可能性を感じていませんでした。
――現在、御所実業はラグビーの名門ですが、当時は?
入学した当時の御所工業は、まだ花園に出場したことがありませんでした。初出場は、僕が1年生の時です。御所と書いて「ごせ」と読みますが、京都御所が有名なので、「ごしょ」工業と言われているくらいでした。1年生と3年生の時に花園行きました。僕自身は、1年生の時は試合に出てないです。先輩が怖かったから、「早よ負けろ……」って思っていました。
――その様子だと、卒業してからラグビーを続けようとは思っていなかったのでしょうか?
卒業後は消防士になろうと思っていたんです。まだ花園常連校ではなかったので、進学して大学でラグビーを続ける先輩も、活躍している人もいませんでしたから。体を動かして働く公務員や消防士ってかっこいいなって思い、担任の先生に、そう希望を伝えたんです。それが竹田先生に伝わり、呼び出しを食らって、「お前な、大学でラグビーしろ」みたいなことを言われました。「大学卒業してからでも消防士なれるやろ!」と。「えー!」みたいな感じでした。
――高校でラグビーを終えることなくプレーを続け、2005年11月5日、スペイン戦で日本代表デビューを果たします(44対29)。
僕的には、ちょっと夢の話でした。もちろん、代表になりたかったんですよ。その前に7人制の代表になっていたのですが、ちょうどその年の春にW杯があって、それを機にセブンズからは身を引こうと思っていました。本当に15人制でしっかりと足をつけてプレーしたいなと。代表というよりは、トヨタでレギュラーになりたいなと思っていたんです。トヨタのレギュラーでもなかったのに、引っ張ってくれたのはホントに感謝してます。そういう感じだったので、代表合宿に呼ばれたことで緊張していました。そういう中で選んでもらったってことは普通に嬉しいと言うか、はしゃいでいた感じでしたね。
――当時指導していたジャン=ピエール・エリサルドが解任され、太田治さんが1試合だけ臨時代行を務め、それからNZのレジェンド、ジョン・カーワン(以下、JK)がヘッドコーチに就任します。
なんか、怖そうな人が来ると思いました。ちょっと緊張感ありましたね。当時は、まだ若くて、プレーに波があったので、結構怒られたんですよ。ホントに恐怖でしかなかったです。後々自分でも分かりましたけど、JK自ら演技して怖い存在感を作り出して、練習環境にプレッシャーをかける、みたいなスタイルだったんです。それも若い時だったので、そのプレッシャーをがっつりと食らってましたね。
――JKジャパンで2007年W杯に出場、2008年になると、キャプテンに任命されました。メディアやファンが驚く人事でした。
いや、僕もですよ。小学6年生の時に少年野球のキャプテンやっていたんですけど、それは同期が2人しかいなくて、僕の方が入ったのが早かったというだけの理由なんです。それ以来のキャプテンが、日本代表のキャプテンですからね。怪我で不参加でしたが、前任の箕内拓郎さんも代表スコッドの中には入っていましたし、僕としては試合に出られるか、代表にまた呼んでもらえるかという当落線上にいると思っている時でした。選ばれて「おお良かった、選ばれた」って思っていたらキャプテンだったんで。マジで、みんなの前で「キャプテン菊谷」って言われた時、声裏返っていましたね。そういうのって、事前になんかあるもんだと思うじゃないですか、「お前、今年キャプテンやるから」みたいな。そういうのがなくて、「え!?」って。その前に紅白戦があって、そのチームのキャプテンをやったんですけど、その時点でもうサプライズでしたね。
――JKは、どういう理由で菊谷さんをキャプテンに指名したのでしょうか?
分からないです。一応、No.8という、コミュニケーションを取ることが重要なポジションだったので、そういうトレーニングはしてもらっていました。練習中に「お前、今何しゃべるんだ?」みたいなことを、JKから英語でバーッと言われて、即座にキーワードをポンポンと答えられるようにしたりとか。ふいに何か聞かれて、「常に考えないといけないよ」みたいなことは、サポートしてくれていたんですよね。でも、何のためにか、という話はなかったです。それがリーダーの練習とは思いもしませんでしたし、個人的にリーダーシップがあるとも思っていなかったですし。ホントに、JKとキャプテンについての話は、あまりした記憶がないです。
To Be Continued…(vol.2は2021/3/28(日)投稿予定)